生涯現役の覚悟と実践
ゲスト
財団法人緒方医学化学研究所常務理事 佐賀大学名誉教授
只野壽太郎
ホスト
ゲートランナーLLP 代表プリンシパル
工藤敬甫
工藤:只野先生、本日は大変お忙しいところ、ありがとうございます。
先生は、これまで臨床医として、臨床検査、医療情報、医療リスク管理等々多岐にわたりご活躍されてきており、現在におかれましても、第一線に立たれ、常に患者さんのため、医療の質の向上に情熱を注がれておられます。
この間の大変なご努力と実績に対しましては、大いに敬服いたしております。
さて、先生は4年ほど前より、「机の上の検査室」の重要性を提唱され、その具体的な環境作りとして、「診療マトリックス」を構築されました。
本日は、先生の少年時代から、医師になられた経緯、医療の質に取り組まれ「診療マトリックス」を構築されるに至った心境などお話いただければと思います。
まず、先生の少年時代はどのようにお過ごしだったかをお話しいただければと思います。
少年時代と医学に向かうきっかけ
只野:父親が日立の電子顕微鏡の開発に携わっておりまして、国分寺に中央研究所ができたとき家族も転居しました。私が小学校1年生だったと思います。それ以来、私も既に60数年住んでおります。
しかし、小学校1年生のころと言えば戦争中で、東京も空襲があるのではないかとなり、母親の実家がありました仙台市に疎開しようかとなりました。その時、祖母が伊達正宗の都だから絶対にアメリカが来たって空襲なんか出来っこないと言いまして、わざわざ安全な国分寺から仙台の真ん中に疎開してしまいました。
ただ、仙台の実家というのが軍に納める食料品の問屋をやっておりましたので、食べ物には不自由しませんでしたね。ちょうど小学校3年生の時に仙台に大空襲があり家財一切、皆焼かれてしまいました。しかし、家族全員助かって本当に良かったと安堵したものです。
東京に、帰っても大変だろうということで、しばらく同じ宮城県の角田というところに疎開しておりました。その後、小学校4年生の時、国分寺に帰ってきました。
ただ、家の近くで遊ぶところと言えば、父親の働く日立の中央研究所の中しかないのです。
中央研究所には守衛さんがおり、こっそり無断で入るたびに守衛さんに追いかけられておりました。(笑)。
研究所の4号館に父親の研究室があり、そこにいくと若い人が実験に取り組んでおりました。当時はみんな食うや食わずの状態で、家に帰っても大変な環境でしたから、夜になると、我が家に来てご飯を一緒に食べた記憶があります。皆さん食後また、研究室に戻るという状況でした。ただ、父のことで覚えていると言えばあの時代、父も一緒にやっていましたが若い人たちがもう、仕事が好きなんですね。とにかく家と研究所を往復して、ほとんど夜中まで研究所にいては帰れなくなるとわが家に来て寝る。そういう生活でしたね。とにかく皆、働くと言うことを一生懸命やると言う印象を持ったことは間違いないですね
工藤:確か、お父様は只野文哉博士(1907~2005)ですね。日立研究所の電子顕微鏡技術の基礎を確立され、日本初の電子顕微鏡を開発したことで有名ですね、只野学校出身の渡辺宏(1927-2007)さん、後に副社長をされた方など多くの研究者を育成されていますね。
只野:これは後から知ることになったことですが、最初の電子顕微鏡は横型だったんですね。どうしても写真がうまく撮れない。あるとき、父親が夜中の1時か2時ごろ母親のおしろい粉を持っていき写真を撮りましたらうまく撮れていた。
よくよく考えたら12時何分かが中央線の最終列車なんですね。それが通過したあとになると振動がなく、うまく写真が撮れたことがわかり、改良のきっかけになったと父親が言っておりました。
当時、三巻さんの先輩にあたる人ですが那珂工場工場長もした木村さんが、長靴を履いてしょっちゅう家にこられ、家と研究所を行き来しておりましたので、工学系の話に触れる環境はあったと思いますね。
工藤:先生が医学に向かうようなきっかけがその当時から芽ばえていたのでしょうか。
只野:どうでしょうか。根源は多分そこにはないと思います。
私はどちらかというと、虫を捕ったりするのが好きで、それこそカブトムシが山の様にいる武蔵野の真ん中で、育ってきたんですね。研究所の初代所長の馬場さんが「中央研究所は木を一本も切っちゃいけないそのまま残せ」といっておりましたことが大変印象に残っております。
そのような環境から、中学校に入った時に生物部に入りました。その時の先生が野村鎮先生と言い、日本の昆虫のある分野では日本のトップで、日本の昆虫図鑑にもかかわった人です。
私は蝶に興味がありましたが、昆虫を研究している人にとっては蝶などが好きな人は、はどちらかというと素人に近いと聞かされていました。そのような中でも、好きな生物を扱って楽しんでいました。
中学・高校と進んだとき、本当は父親の影響があったんだろうと後になって思っておりますが、自分の将来は、地図に残る仕事をすることが、いいと思い始めました。
工藤:地図に残る仕事といえば、建築とか土木関係ですか。
只野:その通りです。私は橋梁とか、船を作ると自分の名前がそこに刻まれるのではないかと思い、気持ちがそちらに向いて行ったように思います。
工藤:なるほど(笑)
只野:当時、夢の中で高校の先生に進路相談するとお前は算数とか数学はあまりよくないと言われ、医学系はどうだといわれたように思います。
工藤:夢の中で医学への進路指導があったということは、心の底では何かしら、感じるものがあったのでしょうね。
只野:当時は、医学部というのはたしかに難関でした。順天堂大学というところが良いので受けたらどうだとの事で、順天堂を受験いたしました。
工藤:先生は中学、高校と桐朋学園とお聞きしておりますが、進路を決められる際、勉学環境のなかからも、影響がおありだったのでしょうか。
只野:桐朋という高等学校は今では進学校で、現在はなんでお前が入れたのかみんなが言うくらい難しい難関校ですが、当時は比較的に入りやすかったと思います。桐朋高等学校から順天堂は私が第一号です。その後は順天堂桐朋会と言って、それこそ100人近い医者がおります。
工藤:桐朋は当時から中学高校一貫教育ですか。
只野:そうです。一貫教育で校風も個人を尊重しており、自主性を重んじる教育方針でしたね。
元々、山水と言って山は低く、水は帰るそういう校風をつくり、軍人子弟養成の学校として開設されましたが、開校後すぐに終戦を迎えた為、軍系列として廃校になる危機を迎えましたが、旧東京教育大学の支援を受けて校内を刷新、桐朋学園となっています。
女子高も山水女子高等学校を母体として桐朋女子高等学校となり、仙川にあります。
女子高は音楽で有名になりました。また、その後、桐朋音楽大学を開校させており、こちらも有名になっていますね。
当時、男子校は女子高の運動会には行ってはならない。しかし、女子高は男子校の運動会に来ても良いとのことで、非常に残念な気持ちを男子校の面々は持っておりました(笑)
隣に柔道場があり、一時期、国立音楽大学が間借りをしていた時代があって、綺麗な女のひとが大勢おりまして、男子校生はうきうきしていたように思います。そんな時代でした(笑)
しかし、私が知っている先生などは、自分で考え、自分で判断し、自分で行動し、責任をもてば、勝手にやってもいいと言っていましたね。他の学校と違って、かなり自由にやらされていました。今でも、進学はあそこに行けなどとは言わないようですね。
父親も勉強熱心で東京に丁稚奉公に来てそこから、学校に通わせてもらったと言っておりましたし、母親の方は商人的で自分で何でもやっていくという気質だから、多少遺伝的に両親の気質を引き継いでいるような気がしますね。
工藤:先生がいろいろ新しいことに目を向けながら医療の質の向上に情熱を傾けられていることは、お父様の勉学態度、研究熱心さや、高校時代の自由闊達に考える校風によるところがあるかもしれませんね。
只野:多分にあるかもしれません。
インターンから臨床病理医へのステップ
工藤:順天堂大学に入られ医師への道程はいかがでしたか。
只野:順天堂大学に入り、インターンをやるころ、たまたま、近いということで都立駒込病院に行くことになりましたが、そこがまた自由な環境で、私の指導医の先生が小張一峰先生といって、感染症の先生です。後に琉球大学の初代病院長、内科教授をされ大変人望の厚い先生でした。小張先生からは、とにかく好きなことをやれと言われ、教えてもらうということがないわけです(笑)
当時、インターンを受け入れる医療施設はインターンが来れば邪魔者扱いはしないけど、まあ、適当に居ろよという風潮がありましたので、しょうがないかと思っておりましたが、先生は自分で考え、勉強するように指導されていたのでしょう。
卒業近くになったとき、小張先生に、私は何科に行ったら良いのかお伺いをしましたら、先生から「学者はだめだ、臨床しかないな、だけどお前はわがままだ。患者とちゃんと向き合って診療するのは難しいと思う。それより、友人の小酒井望先生が日本で初めて順天堂に臨床病理というものを創ったので、そちらを目指したらどうか」と言われ、すぐに小酒井先生のところに行き、小張先生から臨床病理はどうかと言われて伺いましたと言ったら、鍛えると言われ、小酒井教室に入ったわけです。実際、後で聞いてみたら、小張先生と小酒井先生との間では、裏で話が出来ていたようでした。また、別に臨床病理にいくことになった動機があります。
工藤:それは何か特別な動機ですか。
只野:順天堂の非常勤講師をされていた河合忠先生の特別講義がありましたが、そこで、話があったのは、うちにきたら、まずアメリカに勉強に行ってもらいますと。
日本では勉強できない分野だからと言われ、これは面白い、これだと言うことで臨床病理に入りました。つられて2人はいりましたが、小酒井先生からはお前は河合先生のところ(中央鉄道病院)に行くようにと言われました。
河合先生のところに行った途端、ECFMG(Educational Council for Foreign Medical Graduates)と云う留学資格試験があるからそれを受けるように言われました。どんな試験ですかとお聞きしましたら、アメリカの医科大学を卒業したのと同じ資格を取れる試験で、合格すればインターンとレジデントができるものだとのことで、世界の主要都市で一斉に実施する試験です。結局試験を受ける状況になってしまったわけです。
工藤:勉強をしていく流れに乗った状態ですね。
只野:当時、順天堂から合格したのは、内視鏡の名医新谷弘美先生、第三回自己輸血研究会(のち第9回より輸血学会)の会長になられた湯浅晋治先生、それと私ぐらいでした。まあ、私の場合、コンピュータの間違いで受かったのだろうというのが当時定説となっていましたが(笑)。
アメリカに行って臨床病院に行き、帰国後すぐに伊豆長岡病院に検査部長で行けといわれ、2年ほど勤務しました。次に東海大学の病院ができるという話が出てきました。当時の東海大の教授が慶応出身の丹羽正治先生(臨床病理学教授)で、小酒井先生に助教授の照会がありました。小酒井先生からは、近く臨床検査学会があります。教室の全員が発表しますので。そこに行って人選したらどうかとの事だったらしいです。
私が発表したことは良く覚えていますけど、かなり生意気なことを言っていたようです。丹羽先生からご指摘を受けましたが私自身は普通のことを言ったはずなのにと思っておりました。(笑)
工藤:その時はどのような発表内容でしたか。
只野:当時、精度管理が始まったころで、いわゆる検査値の物差しの感覚がない時代で、精度管理を普及させたいとの気持ちがあり発表いたしました。
それに対して臨床の先生から質問があり、そこでアメリカの実情を話しながら検査値の精度管理の重要性を指摘し、そのような環境のない中で臨床はできないだろうなどと、生意気なことを言ってしまったようです。質問をされた先生は大変えらい先生だったことが後でわかり、冷や汗をかいた記憶があります。とにかくアメリカから帰国後まもなくのことで学会の状況は全然わからない中での発表でした。
そんな状況を見られた丹羽先生が、生意気だから只野がいいと指名していただき東海大学にいくことになりました。最初の卒業生が出る6年間とのことで丹羽先生のご指導をうけながら、臨床検査に情熱を注いでおりました。
6年経過しましたら、今度は佐賀医大が新設されるので教授選に出るように言われ、書式をだしたところ、佐賀医大より教授に推挙にするから来てほしいとのことになりました。その時の佐賀医大の学長が麻酔科の先駆者であり九州大学の初代麻酔学教授の古川哲二先生でした。古川先生は小酒井先生とも大変懇意であられたことも私にとって良い結果になったと思います。
工藤:只野先生は、小酒井先生が順天堂の臨床病理を創設されてすぐに入局され、東海大学の新設にあたっても最初に着任され、佐賀医大でも初代の教授で着任されているように、常に最初ですね。
只野:思い起こせば、小張一峰先生、小酒井望先生等、教えていただいた先生から、医学、医療の世界で新しいものに挑戦したらどうかと言われたことを実践してきたことが良かったと思います。
また、挑戦するところで何かやれるのではないかと一生懸命やってきたことが、結果として本当に良かったと思います。
まあ、父親もそんなところが好きで、良くわからないような電子顕微鏡をやっていたのだと思います。日立の電子顕微鏡グループで、父親は研究でしたが、製造したのは牧野さんという方でしたが、とにかく新しいものが好きな方だった記憶があります。自動分析にもかかわり奮闘していました。そのような環境のなかで育ってきたこともチャレンジ精神を醸成していたかもしれません。
工藤:なるほど、新しい分野、新しい大学等の責任ポジションに就かれておられるということは、皆さんが只野先生を良く見られていた証明ではないでしょうか。
医療や医学の中で、切り開くとか、創造するとか、そのような機会に対し、最適な方として、先生を推薦されているのではないかと思います。スタートは一番大変なことですから。
只野:そうですね。私は佐賀医大に行き、そして退官するにあたって、いろいろなところで佐賀時代のことを講演しました。講演総括では最後のスライドに、四十年間医療の世界でやってこられたのは、やっぱり「人の縁、時の運」であるといつも感じておりますと、話しております。私自身今も、感謝とともに、肝に銘じております。
「時の運」というのは臨床病理の昇り盛りの時にアメリカで勉強して、帰国してからも新しいことにトライできる環境にいることができ、検査が一段落した時には医療情報にも携わることができ、それで今度は病院の情報システムと次々に新しいことへのトライが出来ました。
「人の縁」につきましてもインターン時代お世話になった亀田病院の先生方や、小張先生、小酒井先生、丹羽先生、河合先生等々多くの先生方と接することができ、今思えば自分にとって吉となったと思っております。
現在でも四十年以上も韓国とか、台湾との先生方とのお付き合いが続いているのはやっぱり、「人の縁」ですね。
人の縁により、新たな学びと、新しい物への挑戦ができたこと、時の環境に対して新たに挑戦できるチャンスを捕まえることができたこと、大変幸運だと思っております。
工藤:角度を変えた見方をいたしますと、先生が縁を引っ張ってくる着想と、ご努力の結果ではないでしょうか。
只野:努力はしていないんだよね(笑)。
机の上の検査室の着想のタイミングはふとしたきっかけから
工藤:ところで「机の上の検査室」の着想はどのような状況から発想されたのですか。
只野:「机の上の検査室」について何から始まったかと言いますと、佐賀医大に着任して間もないときですから30数年前に、秋田県の菅原先生という現在、90歳に近い開業されている先生から、何か私に問い合わせをしてきたことがあり、自分の考え方をお伝えしたことがあります。それをきっかけに保険改訂があるたびにいろいろ質問をいただき、返事を書いているという関係が長く続いておりました。講演もお願いしたりお願いされたりという状況でした。
先生は新潟大学ご出身で、秋田で開業され臨床内科医学会の副会長も歴任されており、臨床検査に大変詳しい人でした。また、医師会の理事として秋田の検査事情も良く承知されておられましたので、実践的な問い合わせが多かったように思います。
それで4年前先生が関係していた秋田市医師会センターより、「医者がひとめ検査依頼伝票をみたら、病気が目に浮かぶような伝票をつくってほしい」と言われましたのが始まりです。
そこで、ぱっと浮かんだのが高知医大の佐々木(匡秀)先生が出された血液スペクトルです。
検査結果をレーダーチャートの形で表して病気を見定めるということを中心に考えましたが、当時と違って検査が保険点数の関係でまるめになっています。検査の依頼の出し方が変わってきている状況を考えていくと難しい。特に劇的に変わったのがコンピュータの導入です。佐々木先生が血液スペクトルを出されたころはコンピュータが普及していなかった時代です。
そこで、菅原先生には状況考えると先生のご希望にこたえることは無理かもしれませんと伝えました。いっそのこと検査室を診察室に持ってきたらどうかとの発想から、考え直した方が良いだろうと思いました。
つまり、診察室で、診療に必要な全ての臨床検査情報にアクセスできる環境をつくることですね。そこで「机の上の検査室」というのを着想したんです。
工藤:着想後はどのような活動をされたのですか
只野:疾患の診断には基本的検査を迅速に診察室で実施することが望ましいことです。
佐賀医大を退官してからは、佐賀の医師会に関係しておりましたので、各医師会に呼ばれて日本中講演して歩きました。あちこちの開業の先生を訪ねながら検査の活用状況を聴いておりました。
実態としては、診察室での検査は、ほとんど見られませんでした。
そんな状況が解ったころ、日立製作所の三巻さんがパーソナル・ヘルスケアベンチャーカンパニーという社内ベンチャーを立ち上げ、メタボにフォーカスした基本的な生化学項目を測定できるS40,M40という電気釜スタイルのアナライザーを上市することを知り、これと一緒にすれば、まさに机の上の検査室にピッタリと思いましたね。
工藤:ポイントオブケアですね。
只野:その通り、POCTですね。
工藤:先生が「机の上の検査室」を着想されてから、緒方研の60周年の時、臨床検査に精通されている10人の先生方と臨床現場での検査の重要性につき対談されました。
対談を通して、先生方から共通するキーワードが提示されたと思いますが、「診療マトリックス」発想の材料にもなったのではないでしょうか。
只野:全ての先生に言えることは、非常に情報をうまく活用し、それをうまく解釈して対応する、加工技術といいますか、それに大変長けておられますね。
たとえば鹿児島の納光弘先生(財団法人慈愛会会長)は自分が痛風になった時、200回近く血液をとり、検査情報を畳何畳敷きかの図にして、一気に眺めて、そこからビールを飲みながら痛風を治す手立てを考える。もう、データを読む力の凄さですね。
富山の北島勲先生(富山大学大学院臨床分子病態検査学講座教授)にしても、検査データをうまく活用され、それを教育面で実践されていますね。
そのような状況をお聞きしているなかで考えたのは、今、検査センターからは検査データを臨床医に渡しているだけで、これは知的産業ではない。検査データを解釈するシステムをつくったら、どうかと思いました。
そこで、アメリカの検査の教科書を3冊ほど手に入れてそこに記載されている病名を全部洗いだしてみました。そうしましたら病名が2千以上ありました。
また、検体検査に関係ある疾患を拾いだしたところ約1500の疾患がありました。
そこで、アメリカでやっている検査はどのくらいあるのか調べようと思い、AACC(アメリカ臨床化学会)が集めた資料があって、検査項目を集約すると2300項目あるんですね。そのうち、300は薬です。薬をとれば2000項目ですね。組み合わせはその掛け算になり、約300万通りの膨大の組み合わせになります。
工藤:すごい組み合わせですね。臨床の先生はその中から選択するんですか。
只野:医者は最初から、ヒョイと病名には向かいません。その時に、私が佐賀医大にいたときに参考にしていましたのが、1981年Lundbergという人が提唱した「Brain
to Brain」という理論です。Brainというのは脳のことです。
Lundbergはこういうことを言っています。
医師が患者を診て、その人の問題点、問題点というのは主訴、症状ですね。頭が痛い、熱がある、太った等ということを聴くこと。そのうえで医者は頭(Brain)の中で問題点を解決するために、ある病態を考える。頭が痛いなら検査を思い浮かべてその検査をオーダーして出す。そして、検査結果をもう一回頭(Brain)に入れて、患者さんの問題解決の為に使うことが必要ということです。
診療マトリックへの取り組みと本質は
工藤:患者に向き合う医師としての基本的なところから、診療マトリックスへの展開が始まったのですね。
只野:1981年佐賀医大にいったときに,一応基本的な検査室の予算がありましたが。検査体制がおぼつかない。学長が文部省に、理由さえつけばなんとか予算化してもらえると思う、只野何か理由を考えたらどうかと言われるので、私はLundbergの「Brain
to Brain」の理論を書いて、検査室は医者の頭を出た検査依頼がいかに早く検査をし、結果をだして医者に返すことが勝負である。
従って自動化は必要だと申請書を文部省に提出しました。それで予算化されました。
ところが、その時、検査室の中の検査体制、いわゆる処理の問題ですね、ある企業から自動化機械を購入したり、別の企業からはロボットを買ってきたりして、いろいろ組み立ててもらいました。確かに、検査の効率性が上がり、迅速報告にも貢献いたしましたが、本当は違います。患者さんの主訴を聴き、病態を推測し、必要な検査を思い浮かべて検査依頼することですね。
主訴、症状は細かくすれば300近くあるでしょう。普段の先生方では、70ぐらいと思いますが、先ほどの話にありました検査と疾患の組み合わせで300万通りの組み合わせは、とてつもなく幅が広くなり、天文学的で頭の中で回答が瞬時に出てこないですね。医学書を積んでいても、だめだと言うので、そこで考えたのはいわゆる「診療マトリックス」という考え方で主訴・疾患・検査項目全部コンピュータに入れてしまえば良いのではないかと考えました。
主訴から検索しても、疾患から検索しても、検査項目から検索しても必要な情報が得られるようになれば良いのではないかと、診療マトリックスを創り始めまたのです。
工藤:主訴から診断と言いますが、臨床の先生方は診断に対し膨大な情報から、選択するという大変な思いをされているのですね。
患者さんの気持ちは「自分の病気は一体何なのか、どういう診断ですか、診断できたら早く治療をしてほしいと思っています。診断に至った経緯などを、解りやすく教えてほしいと。
そのような会話が自然とできる関係が、医師への信頼、安心感につながるのではないでしょうか。
只野:早く診断し、早く治療に向かう、解りやすく説明する。その前段で、大変な思いをされているのが実態だと思います。
膨大な情報から、必要な情報へと整理していく、しかし、結局、患者さんのために必要なマトリックスを頭の中で覚えていられないんですね。
ただ、診療マトリックスを構築し始めたころ、大変な情報量ですから、ふと、無駄な努力かなあーと思うことが、たびたびありました。
そんな時、毎年アメリカに何回か行って勉強していたという人たちと会う機会がありました。状況を聞きましたところアメリカの医学教育がiPadで劇的に変わっているという人がいて、どのように変わったんだと聞きますと、今の医学部は入学したらiPadを渡され、教科書なんか買う必要もないし、雑誌も買う必要がないとの事でした。何が大事かというと必要な情報を素早く取り出して解釈する。それが医者の仕事なんだとのことで、暗記の必要はないということを聴き、これだと思いましたね。
実はそのことを以前から言っていました先生がおられました。九州大学の濱崎直孝先生(臨床検査医学講座教授)です。
濱崎先生は検査値が正しく、検査が理解でき、それが解れば医者の偏差値で診断するような医者はいらなくなるのだとおっしゃっていました。
私は、やっぱり、医者は勘だよと、ずーっと言い続けて意見が合わないでいました。ところが自分で資料を集めてみると、どうも勘じゃダメだっていうことがわかってきて、浜崎先生に、やっぱり、自分の考えは一部浅はかなところがあったと、伝えました。
肝心なことは、覚えなくても良いということ、やっぱりこれだと確信しました。
ここで重要なのは経験の刷り込みと、インタビューの力だけですね。患者さんから、いかに情報を引き出すかです。だから、アメリカでは、医学部の教育は直観力とインタビュー力をいかに身につけていくか、ここに力点があるというんですね。
工藤:その点に関して、日本の医学教育の中ではどのような状況でしょうか。
只野:残念ながら、この点は、大変遅れていると言わざるをえませんね。
もっと、注力してほしいと思っています。
診療マトリックスを創っている時は、13冊本を重ねて作業しました。このような状況なら、患者を診療するなかで、とてもじゃないが、患者の状態を読み切れません。
覚えなくても良いものを覚えなくてはならない状況から、患者の診療に本当に大切な情報を親切に聞き出すことに時間を使いたいわけです。
経験の刷り込みにしても、医者個人の経験範囲であり、思考幅が狭くなることはいなめないですね。ここに、診断の漏れというリスクを発生させてしまう可能性があります。
疾患の種類が約1500としても、個人が一生にぶつかる病気は100ありません。
だけど、やはり、珍しい病気とかは見落とす可能性があります。
また、同じ症状だけど、本来はこちらが大事な疾患なのに、別な疾患を考えてしまうなど、リスクが出てしまうことがあります。特に心臓疾患などは、消化器の疾患と症状が良く似ていることがあるんです。
胸焼けがするとか、胸が痛いとか患者がいっているが本当のところは分からないわけですよ。
そのような時、心臓疾患も考える必要があるというような情報が経験者であればわかりますが、経験もなく、刷り込みが、されていなければ本当の疾患に注力されないケースも出てくるということです。
そのような時、コンピュータの上でここまでは注意して診察してよ、これもあぶないよという情報を出す必要があると思います。そのような情報が医師に迅速に提供できる環境があれば、患者さんにとっても、医師にとっても大変ありがたいものになると思います。
工藤:先生がおっしゃることが現実になれば、患者さんにとって見落としがない仕掛けで診断しているし、ものとすごく安心感が高まる状況が生まれますね。
只野:そうですよ。
診療マトリックスを試行して解りましたが、やはり日本の先生の場合はね、忙しい診療の中で、つまり、医療費が安すぎるから、たくさんの患者さんを診なくてはいけない訳です。それから、患者さんの方もなんとなく来てしまう人もいるわけですから見分けなければならない。そうすると、真剣に「診療マトリックス」での精査をしていくより、もう、その時その時の検査をちょちょっと、出して、なんとなく落ち着けばいいというよう気になってしまうこともあるでしょう。
工藤:先生「診療マトリックス」の構築過程で検証されたケースがいくつかあると思いますが、それで、代表的な使われ方をして、的を射たというような事例がありましたら、ご紹介いただけませんか。
只野:私が現在、実際に診療しているのは健診の人たちだけです。これは病気を持っていない人たちですから、今は、使ってはいません。しかしある時ね、今度の診療マトリックスを本にしようと検討をしている出版社にNという副社長がいまして、実は不眠と嗄声(させい→声がれ)があると言うのです。それで、彼の場合、仕事柄、たくさんの医者を知っている訳です。
俺はね、どうも寝られない、声が枯れるんだと言うと、相手の医者は、お前はろくでもない本を作って、売れないからだろうと、声が枯れるのは部下を怒ってばかりだからだろう、と(笑)。
どうにも相手にしてくれない。それで本人は、これではいかんということで、私の診療マトリックスに症状を入れました。そうしたら胃食道逆流症(GERD)が出てきたと言うんです。この胃食道逆流症の主訴には10いくつはあるのです。実際にそのうちから、不眠と嗄声とだけ言われてもなかなか分からないんですが、「診療マトリックス」の場合、その2つだけでも、疾患候補の中からすぐに出てきます。
工藤:なるほど、瞬時の情報提供ですね。
只野:このようなことはコンピュータでなければできないのですよ。
例えば嗄声という症状を持っている病気はたくさんありますし、不眠という症状の病気もたくさんあります。診療マトリックスでの主訴の入力は5つ入れられるようになっています。入れたら、まず、疾患を見逃さないですね。
工藤:その時に診断を確定したい為、どのような検査をしたらよいかというのが出てくるのですか。
只野:そうです。一番目の検査として、24時間の食道のpHを測れと出てきます。24時間測れば、すぐに分かりますね。彼の場合なんかも、ただちに診断ステップがわかりますね。
工藤:すばらしいですね。先生、実際そのような事例を経験された中で、臨床の先生方はもちろん、患者さんの立場に立っても、是非、「診療マトリックス」を活用していただきたいと思いますね。
それぞれの先生方の経験と「診療マトリックス」とのコラボは、診療の効率、医療費の適性化、患者さんの安心に対し大いに、貢献するものと思います。
また、医療・介護関連と枠を広げますと「診療マトリックス」の活用範囲はいろいろあると思いますがどうでしょうか。
只野:そうですね、「診療マトリックス」は検査を中心にしていますが、佐賀医大時代に一緒に働いていた南雲文夫という技師長で、今度、定年で辞めましたけど、彼に検査値に影響する事例を調べてもらうようにお願いしました。
私が以前より、検査値を見るうえで、必要な情報があるといっていましたが、それは、予期せぬ検査値を見た場合、例えば、臨床的に診ていて関係ないのにある検査の値だけが、ポンと上がったり、下がったりするっていうことがあるのです。理由が解らないんですよ
検査をしている人たちは、ある程度理解できています。一番わかりやすいのは、溶血を起こせば、カリウムが高い、それは分かりますね。それから日の当たるところに血清を置いとくと色素が分解されるから、ビリルビンがなくなりますよね。
全血のまま室温に置いたら赤血球が糖を食べるから低血糖になります。そのようなことは検査技師にはわかっています。だけど、臨床の先生方は経験しない限りわかりません。
ある時、検査値に影響する事例をSRLがインターネットで流したいというので、幾つか集めてほしいとのことで、代表的なものということで南雲技師長に調べて頂いたわけです。
そうして抽出した事例が300ぐらいありました。それを、診療マトリックスに入れて、今度、本『検査診断マトリックス:医歯薬出版』にもしましたが、そうしましたら「診療マトリックス」へ、一日、2、3百件のアクセスがあります。
工藤:なるほど、臨床の先生方にとっては疑問の原因を知らなければなりませんからね。
只野:検査技師は、今までは特級な人がいたわけです。医者から電話を受けて、検査値のことを聞けば、先生これはこうなんですよと答えられる人がいました。医者はなるほどそうか、どうもあの患者はこの薬を飲んでいるせいかなど、これはこうだとわかる環境がありました。
しかし、もう今は、検査室の人は減り、機械優先だから特級の人は少なくなりましたね。
工藤:なるほど、臨床の先生方にとっては、逆に原点に立ち返り、患者さんの為に、考える機会がふえることになりますね。
只野:そうそう、だから患者さんからしっかり症状を聞きだせば、疾患候補がわかるから、あとは如何にデータを読んで、そして臨床的な、例えば発熱というとね、何百と病気が出てきますよ。その中から、海外渡航したとか、いつ帰ってきたとか、いつごろ発熱したとか、情報を引き出すことが重要なんです。
感染症をチェックするには、アメリカのCDCの世界感染症情報にこんなウイルスがあったから、そうじゃないかとか、いろいろ検証することが出来ます。
直感力と、発想展開の違いと、そしてデータの解釈力それらを手助けできる道具が診療マトリックスです。外付のBrainとして診療する環境ですね。
工藤:医療の質の向上をはかる道具ですね
只野:だからもう、検査値で診療する人はいらなくなる。医学部にくるのは、本当に人とよく話ができて、その人から、うまく情報を引き出すつまり、インタビューの力を持てる人、それと直感の働く人ですね。と言いますのは、3年前になりますか、私が知っています会社の、年は四十後半で次は取締役が決まっていた方ですが、日曜日に、むかむかするって、大学病院の分院に行ったんだね。そうしたら、若い人が出てきて、まあ胃だろうっていうので、胃の薬を処方され、家に帰ってきた途端に便所で倒れて死んでしまったのですよ。
考えなくてはいけない事は心臓疾患で、胃がむかむかしたり、消化器系の症状を訴えるということは誰にでもあります。
ところがね、四十代半ばの人で一流会社の取締役になるような人が、わざわざ混んでいる日曜日の救急外来に来るということは、何かあるのです。
医者が考えられないような理由があるんですよ。やっぱり自分でおかしいと思っているんです。
医師が患者の重病度を直感力で見抜くことができない。大変、憂慮すべき状況ですね。
工藤:そのような状況下で先生の「診療マトリックス」で補完していけば、危ない事態に気が付く訳ですね
只野:たとえね、見逃したとしても心臓かもしれないから、こうこう注意しなさいと言ってかえすだけでも違います。こういうことは。やはり見逃してはいけないという情報が出てくる様になるのではないですか。それが大切なことです。
工藤:ところでコンピュータの展開で、看護師さんからのアクセスも非常に多いということをお聞きしましたがどうでしょうか。
只野:これは大阪にあります医真会八尾総合病院というところの森 功先生(医真会理事長)に、最初の「診療マトリックス」を送った時、只野さん、これね、臨床の場で忙しくてなかなか使えない、だけど、私は看護師と研修医に一日仕事が終わって帰るときに、自分で今日出した検査、今日報告をもらった検査について、一回入れて見ろと。それで漏れがなかったかチェックしてから、帰るように指示を出しましたと言っていただきました。それに使っていただいています。
今ね、看護は看護計画といって医者と同じように診断をきちんと決めて、どういう手順で処理していったら退院が早くなるかということを、彼や彼女たちはやっているわけですよ。
「診療マトリックス」のスマホ版のねらいどころ
工藤:患者さんの為に何をなすべきことかということに対して、いろいろな活用場面が出てくるのですね。
只野:もし、看護が「診療マトリックス」を活用していたらどうでしょうか、医者が直感力だけでやって威張っている時代じゃないですからね。
我々がアメリカにいたときは、もう四十年も前の話ですが、看護師は本当にすごい知識をもっているわけです。いかに助けられたか、こういう関係がだんだん日本でも育ってきていますが、学問的にも同じ土俵でやれるという良いところが出てきたはずです。
診療マトリックスの活用で変わっていただきたいですね。
工藤:そうですね。そういう意味では「診療マトリックス」が、本当のチームユニオンのベース部分になっていきそうな感じがしますね。先生は将来的に、この活用の仕方を含めて、これから先にこうゆう風なレベルまでグレードアップすると、さらに広く活用される、あるいは効果をあげると言う様なそのような目途はいかがでしょうか。
只野:今の「診療マトリックス」の活用の試行につきましては、検査の選考項目を決める等、辞書的に使っているようです。
そこで現在取りかかっていますのは佐賀医大時代の南雲技師長と、私と一緒に佐賀医大の電子カルテを作った高崎さんと3人でそのスマホ版を作ろうとしております。
それも通常疾患、Common Diseaseと言いまして、300もない一般的な病気、発生頻度の高い病気が対象です。これ以上のものは詳しくWEBで見ていただこうと思います。
スマホ版の300のコモンデジーズを中心にした「診療マトリックス」を2013年の3月ごろまでにプログラムを組み上げて、作ろうとしています。
工藤:スマホ版の作成は医療関係者だけではなく一般の人にも見られるようにするとのお考えですか。
只野:その通りです。
工藤:それは素晴らしいことですね。これからは、やっぱり患者さんが知識を持たないといけないですね。
只野:そうそう。これからは患者さんも、いろいろ知識を持たれた方がいいと思います。元九州大学病院検査部の技師長をされた木下さんは、このスマホ版が出たとき、患者さんがこれを見ると、難しい病気を主治医のところに突き付けて、その先生は困るのでないか?
でも、良いことですね。今は患者さんも、ものすごく難しいことを勉強しているからいいのではないかと、言われました。
工藤:患者さんが病気に関する知識を持ったらまずいと言うのは古い考えですね。
それでは、医療の質の向上をしようということは言えなくなってしまいます。
只野:現在、私は健診の方々を診ていますが、一番困るのは目なんですよ。
眼底があると、眼科医の所見が書いてありますね。これね、もうずーっと昔にやっていたことで忘れているもないも今は、見たこともないですから。
だから、いわゆる検診で出てくる眼底所見を、ザーッと並べて自分なりの解説書をコンピュータで作り、それを自分で持っておいて受診者に説明しているのです。
そうしたら、患者さんから眼科の先生より詳しく説明して貰ったと言われるんですよ(笑)
私は辞書を作っているだけだから。(笑)
しかし、やっぱり医者にとって、広く深く患者さんを診ていこうとすることは大切なことです。
工藤:先生が「診療マトリックス」の構築をされていることは、臨床の先生方が直接的に知っていただく環境がありますが、もう一方、一般人と言いますか患者さんとなってしまう方に、先生が、今このような活動をされているということを、もっと、知っていただくことが大事ではないかと思います。そのような環境づくりも将来の医療の質の向上へのステップだと思います。
別な観点からやっぱり、医療の質を本当に上げていくならば医療費も、下がっていくんだと思います。
只野:医療の質を上げていく事は無駄な検査をしない、的確に必要な検査を行うわけです。医療費も下がると思います。また、早めに患者さんに対応できることですからね。
今ね、健診を診ていますと、いわゆる糖尿病ではないのに、あなたは糖尿病だと言われて、薬を出しますと言われた人もたまに来るんです
そのような時、言われた先生には失礼と思いますが、その方には、糖尿病の診断基準の資料をわたし、これをよく読んで納得してから、今、診察していただいている先生に質問されたらどうですかと言っています。私、糖尿病の診断基準を読んだら私は糖尿病ではないようですが、本当にどうなんでしょうか。と聞いてみてください。と言っているんです。
とにかく、患者さんにとって、病気を非常に解りやすくしていく環境を作っていく必要があります。
もう一つは、診療マトリックスは病気に対しての解説を記載しておりませんので、Common Diseaseで300ぐらいの病気だったら、入れていけると思い、工夫しています。
工藤:「診療マトリックス」をベースにして臨床の先生、診療部長の先生、検査技師、看護師が患者さんの為の共通の会話ができてくる環境になると思いますが。
只野:ただ、もう少し、情報を付け加えたいですね。スマホ版だったら頻繁にアクセスする先生が絞られてきますから、そのような先生にお願いして知見ですね。こんな風に活用して助かったとかの事例を集めて、活用事例集的なものを作ってみようかと思っております。
工藤:是非、そのような企画を進めていただきたいですね。さらに活用が広がるきっかけにもなることだと思います。
只野:診療マトリックスのWEB版を出して、ちょうど7月で1年ですからスマホ版がでたら、活用していただいた先生からの事例なども纏めたいですね。
私が佐賀医大に着任して10年目に、臨床検査のデータで落とし穴にはまった事例を纏めるため、臨床検査をよくやられている内科の有名な先生方にお願いし、10周年記念として「臨床検査のピットホ-ル」を出版しました。
そうしましたら大変好評ですぐに第2版を出して、またそれが非常に売れました。
聖路加病院の日野原先生がその内容に目をつけて、検査だけではなく臨床版も作ったらどうかと言われましたので、当時副院長だった松井(征男)先生に状況をお話しました。いわゆる診察のピットホールと言えば、心音を見逃したとか、口の中を見るのを飛ばしたとか、そういうことで診療上の落とし穴にはまった事例を集め1冊の本を作りました。
このような事例というのは、臨床医であれば、いくつか経験を持っています。纏めれば臨床の現場では大変役に立つと思いますし、面白い本になると思います。
工藤:先生が少年時代から今日まで自由活発に問題点を捉えながら、従来の固定概念の延長線の発想ではなく新しいものに切り替えて、なお継続されている情熱はどこから来るのでしょうか。
只野先生とのお付き合いは長くはありませんが、やっぱり反骨精神を感じます。
只野先生はマジョリティとマイノリティとあるといつもマイノリティから新しいことをされていますよね。それってやっぱり反骨精神ではないですか?
只野:多分、そうかもしれません。楽をしようと思うことと同時に、工夫欲が強いのでしょう。教科書を読んで暗記するなんて大変だから、何かコンピュータに入れておいてね、引っ張り出せれば済むことなのにと思いつつ、もっと重要なことに力を注ごうと考えるわけです。
工藤:そうかもしれませんが、その前段階で本質論の確保、いかにシンプルに整備されるとか、目標に持っていく手段をしっかりやり遂げていくから、そこに到達するんだと思います。それは、経験がない限りなかなかできませんし、情熱をそれに合わせて持っていないと、このような「診療マトリックス」のシステムを構築することは出来なかったと思います。
先生には医療の質の向上に向けて是非生涯現役で頑張っていただきたいと思います。低開発国や、発展途上国では、いろいろな病気で早く亡くなる人が多いですね。健康不安の多い国々で「診療マトリックス」が使われていけば、すごいことですね。
只野:私は、日本では医学部の時代の6年間、インターンの1年間がありましたが、アメリカでの4年で医学に対する勉強と姿勢を学んだと思います。日本にいたら多分、駄目だったでしょうね。
アメリカ時代で実践的知識を学び,医療に向かう姿勢を会得
工藤:先ほども少しお話をいただきましたが、そのアメリカ時代のお話をしていただけませんか。
只野:私はECFMGの試験を受けて、アメリカ中の病院100何カ所に雇ってほしい旨手紙をだしました。そうしたら、ニューヨークの病院から連絡があり、そこに行く事にしました。アメリカにはホームステイというのがあるとは聞いていましたが、住むところをどうするか少し心配になりましたので、当時、アメリカの商務省の出先が虎ノ門にあり、そこに行き聞きましたらホームステイの制度があると言うことが解りました。そこの担当者から、あなたは、医者だから、ニューヨークの医者の家に行くようにと言って1か月前にセットをしてくれましたね。
紹介してくれた先はニューヨークのクィーンズ区のフォレストヒルズという高級住宅地の整形外科の医者の家でした。奥さんも内科の医者で、そこに1か月お世話になりました。
でも、1か月で英語がうまくなるわけがないですね。そんな状況で7月1日ですか、病院に行きましたら、向こうは公平ですね、なんと、今日から君は診療の義務があると言われました。
英語が分かるとか分かんないとか関係ないです。
そこで、いきなり患者さんを診ることになり、それこそ七転八倒です。夜も寝れないくらい神経を使いました。
とにかく、カルテ作成については、患者さんを診たら、その日のうちに、ディクタフォンに入れると、秘書がタイプで打ってくれますが、最初のうちは英語なんて通じないですから。真っ白な状態です。三か月ぐらいたったらね、だんだん埋まってきて、そのうち、ちゃんと埋まるようになりました。どうして、お前たちは、英語の本を読んだり、書いたりできるのに喋れないんだと言われましたね(笑)
工藤:その病院というのは{ER救急救命室}のモデルとなったあれですか。
只野:ER救急救命室のモデル病院はそのあとのシカゴです。
最初はニューヨークのコロンビア大学の教育関連病院です。そこでは日を決めて、患者さんの診察をする形態でしたね。
そのあと、今度はシカゴに行ってみようと思い、イリノイ大学に応募したら、来るようにとの連絡が入りました。しかし、なんで自分が採用されたのか知りたくて、聞いてみました。そうしたら、君のカルテを取り寄せてチェックし、採用を決めた。カルテを見ればその人の能力が分かると言われました。
いや、真面目に一生懸命カルテを書いていましたからね。
イリノイ大学に行きましたら、隣に、クック・カウンティ・ホスピタルという郡立病院がありました。そこに週一回ERサービスに行かされました。
テレビに出てくるような重体の救急患者が担ぎ込まれてくるのです。
最初のうちは、血を止めるとか、必要な器具を寄こせと言われれば渡すなど何も手術をするわけではないですから。でも喉を切られたとか、ピストルで撃たれた人が運び込まれてくるんですね。
刺さったままのナイフは抜いちゃいけないとかいうことはそこで勉強しました。
そのほか医者を騙す人も結構来るんですね。
真っ赤な色の液体が入った試験管を持ってきて転げまわるんですね。これは腎臓出血だ麻薬をくれっていうんですね。それで、私は真剣に麻薬を出そうと思うと看護師が来て、この人は麻薬がほしいから役者しているのと言うんです(笑)。
それは、鶏の血液です、鶏の赤血球は核があるんです。そのことは私が鉄道病院で抗核抗体の検査を自分で鶏の血液を使って検査していましたからすぐに解りました(笑)。
ちょっと日本での勉強が効きましたね。
このようなことは詐病といいますが、又ある時は女性が、お腹が痛いと言って七転八倒するんです。連れてきた男は妊娠してるとか何も言わない。とにかく写真を撮れって言うんですよ。
もし、そこでいきなり腹部X線写真を撮ると、妊娠していたのに写真撮ったんだと訴えられる訳です。
金をよこせと、言うことですね。どのような事態でも女性の妊娠確認だけは注意しないといけないということもアメリカで勉強しました。
これ等の病院では、24時間検査をやっているので、いかに検査データが早く出てくることで、どれだけ助かったかということを経験しました。
日本に帰国してから国立大学病院に24時間検査室を作ろうと言うのが私と高知の佐々木(匡秀)先生の考え方でした。24時間検査室があるのとないのでは臨床対応が全然違ってきます。
そのような意味で若い医師は救急病棟の経験を積んだ方が良いと思います。それと総合診療ですね。あらゆる疾患に対応できることが出来る、自分の専門だけに偏らない知識を持つことは非常に大事なことです。
たとえば、イリノイでは隣に退役軍人病院があり、ここで週一回患者を診ることになっていました。患者は7月になるとレジデントが変ることを知っています。その中には古強者で病院に遊びにくるような感覚の糖尿病患者もいまして、その患者はずーっと尿糖がプラスなのに、私が診たときにマイナスになっているんです。そこで、よくコントロールしたねと言うと、このレジデントは駄目だっていうわけです。つまり、グレープフルーツを食べたからデータの変化が起きていることです。ビタミンCは尿糖検査を陰性にすることを知っているからレジデントを試すわけです。
そのようなことがあるので、指導するドクターや看護師は、レジデントに対し尿糖がマイナスになったら、必ず、患者に今日の朝、何を食べたのか聞けっていうんですよ。
患者に今日の朝、何食べてきたって聞くと、ニターと笑ってね、グレープフルーツ食べたと言うんですよ。一人芝居をやるんですよ。これで尿検査マイナスになる、
ドクターお前よく知っているなと言って又、ニターって笑うんです。(笑)
このような病院ですから、それはめちゃくちゃ鍛えられましたね。
患者を良く診る意味で、私は、先輩から引き継いだ医療情報は、伝えて行かなければといけないと思います。
残念なことですが良い医者でもカルテをしっかり書かない先生は沢山います。もったいないと思います。その先生の良い仕事が伝わっていかないんですから。
アメリカの凄いところはカルテがしっかりしている事ですね。
入院患者は大体一時ごろになると、午前中に開業医が診た患者が送り込まれてきます。その患者のベッドサイドに行って、話を聞いて、簡単な検査をして診断をつけておきます。そうすと、三時ごろ、開業医が来て、君はどういう検査をして、どんな病気だと思っているのかと聞くのです。
その時に私はアメリカの開業医は何でこんなにすごいんだろうと思いました。心電図も日本では、カルテに貼ったらそれで良いのですが、アメリカではレジデントは心電図の波形を文章で書けと言うんです。それが、練習だといわれました。この文章を読んだ人の頭に心電図が思い浮かぶように書けっていうんです。(笑)
経験の浅い時ですからそんなこと分からない訳ですよ。そこで、24時間開いているカルテの部屋があるんです。代表的なカルテがザーっと並んでいて、同じ病気というのがすぐわかるようになっていますので同じ心電図を見て参考にしました。
そういうところはアメリカはすごいですね。
後に聖路加病院に行きました松井先生が私と同じ時期にシカゴのマイケル・リースという病院にいたんですが。彼のカルテがすごいんです。もう代表的な見本になるようなカルテです。あるとき、日野原先生がこの病院に行って代表的なカルテを見たいと云ったそうです、出てきたのが松井先生のカルテだそうです。
このようなカルテは教科書のカルテとして、教育用のカルテ棚に収まっています。
レジデントはそれを見て書き方を覚えるわけです。
あらゆる面で勉強になりましたが、ここで話すと1日じゃ話きれないぐらいありますね。いずれにしてもアメリカでの4年間は大変勉強になりました。
カルテについては、佐賀医大でアメリカでの経験を生かして、カルテ記載の在り方から診療記録記載の方法を提示しました。臨床検査部の仕事が一段落したことで、カルテの方に軸足を移し、最終的に電子化を志向しました。
工藤:電子カルテについても、いろいろお聞かせ頂きたいのですが。
只野:アメリカで経験したようなことを充分に理解し、分かった上で電子カルテをやらないと診療上問題が残ります。単にコンピュータのワープロソフトではないですから患者さんを良く診ていく、早く治療をしていく記録ですからね。
電子化は汚い字ではなく読みやすくなるっていうレベルではないんです。
日本の電子カルテの現状をみますと、いくらお金をかけても問題点は2つあります。
1つは導入する病院側がカルテを充分に理解していないことです。
2つ目は電子カルテを作っている会社が、カルテのことを全く分かっていないことです。
医者に言われた通り、ワードの医療版みたいなものを提供すれば良いと思っているわけです。まず、基本の理念は問題志向型の発想でなければなりません。それからSOAPで書くことです。患者の主観情報、客観的データ、それを基にしたアセスメント、それからアセスメントに応じた治療プラン、検査プラン、療育プランを、組み立てていく事です。例えば5つの主訴があれば、1番目の主訴に対しては、これ、2番目の主訴に対してはこうと、明確にわかる記載をしてあるのが本当のカルテです。
そして、看護師の得た情報と、合わせてみる必要があるのですが、日本の殆どのカルテは看護情報と医療情報が共有されていません。
日本の電子カルテは、医学に対する理念や哲学を持たない、理解していない会社が作ったものですから、単に雑記帳です。
工藤:理想的なきちっとした電子カルテがあれば、先生の「診療マトリックス」がぴったりはまりますね。
只野:理想的には主訴と検査データがコンピュータ上で全部マッチングが出来ていることが必要です。あとは診療プランを立てていければ、完全に患者さんの医療情報がつながって医療の迅速性、適格性、適正化が向上していくわけです。
工藤:良くわかりました。
生涯現役はなぜ必要か
工藤:先ほどスマホ版の話のところで、生涯現役の話が少しありましたが、生涯現役の話をもう少しお聞きしたいと思います。
只野:結局、私自身は、あまり器用ではないと思うんです。趣味はありますけど、一番面白いのが仕事なんです。
父親もそうでした。生涯現役だって言っていました。
父は日立を退職したあと、若い人たちに科学の楽しさを伝えたいと自分が学んだ、宮城県岩沼市立岩沼小学校へ65歳から亡くなる直前まで31年間、毎年行って、子供たち延べ4万人に科学がいかに面白いかということを講義していました。
そして、その中から日立に入った人もいれば、NECにいった人とかいろいろいますね。また、釣りという趣味はもっていましたが、それは趣味というほどではなく遊びですね。
とにかく、仕事が趣味っていうか、そこに楽しみを集中させていたようです。
私の話に戻りますが私も中学校で生物部に入り蝶など昆虫採集やっていましたので図鑑など眺めながら、楽しんでいます。日本は今では世界で一番立派な図鑑を作る国です。
それから、私は恐竜が好きなので、世界中の博物館で恐竜の化石を見るのが楽しみの一つです。
でもそれらは遊びの範疇ですね。
やっぱり、何十年か教えていただき、今やっている医学が最後まで自分に付きまとっていて、捨てられないものです。
父親は95歳まで現役でしたが、反省があります。父親の脚が少し悪くなったから、みんなで活動をやめさせたわけです。父親はもっとやりたいと言っておりましたが、2年間であれよあれよという間に亡くなってしまいました。
その反省から、人からやりたいことを勝手に取り上げてしまうことは良くないことと痛感しています
工藤:先生、奥様に言っておかなきゃいけないですね。止めないでくれって。
只野:そう、だから、歯が丈夫で、目が見えて、口が動くうちは働くって言っているんです。
工藤:奥さまは、先生が忙しくされているとお体を気遣って、家でゆっくりしてほしいと思ってしまうのではないでしょうか。
只野:いや、全然そんなことを考えていないと思います。なぜなら、今でも朝6時に起きて、週2回は柏の病院に行ってます。電車に一時間半乗っていますからね。あとは、緒方研に水曜と金曜日は一日、月曜は午前中は新橋の汐留検診クリニックに行き、午後は緒方研です。夕方は早めに帰り、近くのスポーツセンターで水中ウオーキングをしています。家にいないほうがうるさくなくていいのでしょう。
水中ウォーキングは週4回、多い時は土曜日も行きますから5回、プールの中で歩いているんですよ。もう6年経ちましたが、6年以上続けている人はほとんどいないですね。
私はマシンをつかわず、ひたすらプールの中を45分歩いています、ゴールドカードをもらった時に、何年も水の中を歩く人はいるかとトレーナーに聞きましたら、6年間水の中だけ歩く人は珍しいと言っておりました。(笑)
工藤:いや立派ですよ。地上を歩くよりは水の中の方が良いのではないですか。
只野:その通りです。負担がかかりませんから。
工藤:続けることは大変ですが、喜びも多く受けられる事ではないでしょうか。
只野:そうですね、父親が生涯現役を貫こうとしていたことを自分はどこまでできるか、やってみようと思っています。
頭脳が正常なうちはしっかりと社会還元しなくてはならないと思っています。働けるうちは働けということですかね。日野原先生のホームページを見ますと百二歳までの講演の予約があるようです。(笑)。
工藤:先生、生涯現役というのは、やっぱりお金ではないのでしょうね。
只野:お金ではないですね。あなたもそうでしょう。私の場合は仕事ですので、それなりにお金は入ってきますが、それだけが目的ではないですね
今までやってきたことを簡単に辞めるなんてことは、もったいないと思います。まあ、多少迷惑がかかるかもしれませんが、本当にもったいない。だから、絶対辞めてはいけないと思いますね。
三巻:もともと育ちがいやしいもので、若いうち、子供が小さいころは、仕事イコール食い扶持と考えておりましたが、この年になってようやく気が付きました。ここから先はどうやら違うなと思っております。生涯現役とは、仕事をすることと生きることが同列なのだと。
只野:アメリカから帰る時に言われましたす。お前、何で日本に帰るんだと。ポジションも約束されていないのに、日本に帰って給料いくらなんだと言われました。
言われてみると日本に帰ってもポジションなんか別に約束されていないし、給料も助手と言っても当時は無給に近い状況で帰る訳ですから、いくらと言えるほどはないですよ。
アメリカ人にとってはなんて不思議な人種だろうと思っているんですね。
だから、お金だけを考えていましたらアメリカに残っていたと思います。
大学の先生の給料なんて知れたもんですよ。だからお金だけだったら、他のことをいくらでもできたと思います。かなり早くからお金じゃないと思っていました。
たまたま、私は国立にいましたおかげで、自分では作れない何億というお金を使って好きな事が出来た事、このような環境が十年、二十年と続いた夢のような世界に、たまたま居たのですから、本当に楽しく仕事に打ち込めました。
辞める前に何人かから、仕事のオファーがいくつかありました。その中で最初にお世話になった鉄道病院の高橋先生が、まだ辞める一年前に来られて、君が定年になったら、ちょっと僕の仕事を手伝ってほしいと言われました。その時はどのようなことですかとは聞きませんでした。高橋先生は細胞診の大家でSRLの副社長もやっていましたから、何か検査のことだろうと思っておりました。
工藤:それで天宣会ですね。
只野:そうですが、ただ、その前に緒方研の内藤修理事長(当時ヤトロン社長)から、只野先生には試薬開発や機器開発で大変お世話になったと言われ、定年になったら東京に事務所を作るので、そこでいろいろアドバイスをもらいたいといい、緒方研の6階に事務所をもらいました。
工藤:先生とのお付き合いが長いですが、私が会社勤めをリタイアして、家でボヤーっとしていた時、先生から、電話を頂きました。お前、何やっているんだと言って、そのままでは、ぼけてしまうぞとか言われ、日立の仕事を手伝うようになりました。そこで何で、先生が私のことを思い出して電話してきたのか分からなかったのです。
只野:いやいや、やっぱり仕事でそれなりに一つの自分を積み上げた人は、一生それで社会に尽くすべきです。それが生涯現役ということ、絶対に辞めてはいけないことですよ。
それで、もう一つのきっかけはSRL社長の近藤(俊之)さんと食事会をした時、工藤さんが薔薇なんか作るとか言ってましてね。それはないだろうと思いました。
工藤:先生のこと良く理解しているつもりですが先生から、何かいろいろ言われるともう逆らえないなと思ってしまいますね(笑)
只野:工藤さんという人を埋もれさせてはいけないということですよ。
工藤:ありがとうございます。それまで、三巻さんとも付き合いがありませんでしたからね。
只野:我々も同じですね。結局、それぞれ活躍している人は絶対にその能力は枯れないのです。今の診療マトリックスだって、誰が作ったかと云えば、高崎(光浩)さんと南雲(文夫)さんですよ。
彼らは、これをやろうと言えばやる、これを作ろうと言えば作る、やっぱり楽しいのですよ。
だから、彼らの様に能力を持っている人を放っておいたらもったいないです。
この前、日立の大木(博)さんが同じこと書いていましてね、私も会社辞めてしばらく悩んだ末に、やはり生涯現役だって、書いていました(笑)
只野:私はね、今の職業を選んで、いつも会う人は病人ばかりでね、つらいです。大木さんみたいに、好きなことをやれるのは良いですね、羨ましいですよと、返事を書きました。嫌味じゃないですよ(笑)
世の中、いろいろ良いことをやってきた人が簡単にリタイアしてしまう大変もったいない事です。やはり、生涯現役を貫いてほしいと思っております。
工藤:たまたまの人との出会いを大切にすること、出会いを積極的につくっていくこと、それも見習うべきものを持っている人との付き合いは自分の一生の中では大事なことですね。
只野:その通りですね。とにかく人と付き合うこと。何が自分を成長させてくれるかわかりませんが、本質論、具体策を見定めて、一生懸命誠意をもって動くところから、その延長線上に自分を生かし楽しくする環境を見つけることが出来るのではないでしょうか。
現役終盤で生涯現役を心がけることも良いですが、自分は生涯現役でいくことを早くから見据えていくことも、一つの生き方と思います。これからも頑張っていきたいと思います。
工藤:ありがとうございました。先生の少年時代から、医学に向かわれた時代、アメリカ留学時代、佐賀医大時代、生涯現役続行中と多岐にわたりお話しいただきました。先生のご活動の中には常に本質を見定め、どこに貢献できるという明確な目標があり、われわれも見習って、且つ楽しくこれから進んでいきたいと思います。先生のますますのご活躍をお願いしたいと思っております。本日は大変ありがとうございました。